1年経つのが早かった

内容重いからスルー推奨。




今日は命日でした。
去年のこの時間はあちこちに連絡したりでドタバタだったなー。


最近思うのが、親父は自分で選んでこの日に逝ったんじゃねーかって。


入院した頃から「正月には家に帰りたい」ってよく言ってて、
その当時はもしかしたら一時帰宅とかで帰れるかもしれないって思ってたんだけど、
11月の半ば頃からそれは無理だろうっていう病状になってた。


去年のこの日の午前中に担当医から呼ばれて病院に行ったんだけど、
ついに終戦宣言が出されたんだよね。
もう危ないって事と、痛みとかを楽にするためにモルヒネ(麻薬)を入れませんかと言われた。
病気が発覚した時には既に病気の進行具合が進みすぎてたから、
諦めなくちゃならないってのはあったし、きっと数ヶ月の命だろうって理解してた。
でも、いざ治療を諦めて延命よりも楽にしてあげる事を勧められて
俺がそれを了承して最終決断を出さなくちゃならないっていう現実に直面した時は
さすがに「これでいいのかな?これでいいんだよね?」って何度も脳内で繰り返した。
それでも結論は1つしかなくて、モルヒネの投与をお願いした。
医者からモルヒネの投与で意識障害とかの説明も受けた。
よく「生きていればこそ」とか言うけど、そんなもんはただのキレイ事だと思ってる。
治る見込みが無いのに数日でも数時間でも数分でも数秒でも生きて欲しいなんて
果たして誰もがそう思うんだろうか?
闘病する本人も、それを見守る家族もホント辛いんだよね。
もちろん最初からそんな絶望的な考えばっかりじゃなかった。
「もしかしたら」とか奇跡を信じてみようと思ったり、
抗癌剤が上手い事効いて数ヶ月は余命が伸びるんじゃないかって期待もした。
葬儀とか全て終わって落ち着いた頃、俺の知らない話が出てきたんだ。
親父が弟に「こんな辛い思いを続けるなら早く死にたい」って言ったらしい。
まだ奇跡を信じてる俺には言わなかった事。
闘病する親父もほんの少し生きる時間を延ばす事への意味の無さを実感してたのかもしれない。
奇跡をほんのちょっとでも信じてた俺も日に日に弱っていく姿を見るにつれ、
信じてたものが次第に薄れて行きいつの頃からか「苦しまないで逝って欲しい」と思うようになった。
それを決断する時が来て、決断したのが去年の今日。


午前中にさっそくモルヒネが投与され、
その日の夕方頃「痛みもないし良く寝れる」ってご機嫌だったらしい。
担当医からいつどうなるか分からないと言われてたから、
オカンが泊まりで親父の病室にいるようになって2日目の事。
一緒にモノマネの特番見て消灯して、オカンが寝て間もなく親父の容態は急変した。
オカンから「医者から危ないから家族を呼ぶようにと言われた」って電話があって
すぐに家を飛び出して車をかっ飛ばした。
10分後に病院に到着したけど間に合わなかった。
今でもハッキリ覚えてる。
オカンが言った「お父さんが死んじゃったよ」って言葉と
あの病室の温度と匂いとドラマとかで見た事ある計測器のピーって音と
脈が止まったことをあらわす波のない横線1本の波形。



あれから1年。
きっと親父はこの日を選んだんだと思えて仕方が無い。
俺が延命を諦めて最後の決断をしたその日に逝った。
30日だったから、通夜・葬儀の予定が全て正月休み明けって事になり、
この日の夜に親父は家に帰ってきて正月を家で過ごせた。
葬儀屋さんの話だと、死後から通夜までこれだけの期間があるのは
この時期しか基本的にありえないらしい。
俺が決断した、正月に帰りたかった、できるだけ長く家に居れる時だった、
これだけの要素が揃うと親父が自分で選んだんじゃないかって思えてきてしまう。


当然長生きして欲しかった。
いつになるか分からないけれど結婚相手を見せたかったし、
家族持つところ見せたかったし、孫を抱かせてやりたかったし。
それをさせてやれる年齢なのにさせてやれなかった事が俺が犯した最大の親不孝だと思ってる。
もう取り返しがつかない親不孝。ずっと背負わなきゃいけない事。
今更後悔しても遅いんだけどね。


せめてもうちょい先にならなかったかなー。
少なくても今生きてて欲しかった。
今まで数えるほどの彼女しかいなかったけど、紹介した事なんて1度も無かった。
でも初めて紹介したいって思える人が今いるんだ。
俺にはもったいないくらいのめっちゃいい人。
今までで1番大切にしたいって思える人。
もちろん結婚だとかそういう段階の話じゃなくて、
ただこの人と付き合ってるって事を紹介をできたらなって。


そんな事を考えてたあれから1年の12月30日。